90年代の韓国で日本文化はどう広まった?X JAPAN・ドラマ・漫画・ゲーム
今では韓国でも、日本の音楽やドラマ、アニメ、ゲームを当たり前のように楽しめます。しかし、私が学生だった1990年代は今とはかなり状況が違いました。
韓国政府が日本大衆文化の段階的な開放を始めたのは1998年10月です。国家記録院の解説によると、開放は分野ごとに進められ、家庭用ゲーム機向けのビデオゲームが全面開放されたのは2004年1月でした。そのため、「1998年に日本の作品がすべて自由に流通するようになった」と理解するのは正確ではありません。制度上の開放と、当時の若者が作品に触れていた実感には、ずれがありました。
正式な流通に制限があった時期にも、日本文化に関心を持つ人はいました。私の周りではX JAPANの映像を見たり、日本の漫画やゲームに触れたりしていました。こうした経験は、当時の韓国の若者全員に当てはまるものではありません。地域や家庭、友人関係によって、出会う作品も入手方法も違っていたと思います。
私自身、日本のゲームをきっかけに日本語に興味を持ちました。友達とX JAPANのビデオを回して見たのも、この頃です。また、好きだったSPEEDのブロマイドやビデオテープも集めていました。
以下は、制度としての文化開放の経緯と、私や周囲の友人たちが作品に触れた経験を分けて振り返ったものです。同世代でも、住んでいた場所や趣味によって身近だった作品は違います。
目次
X JAPANや安室奈美恵を知っていた韓国の若者たち
90年代の韓国で日本の音楽に関心を持っていた人たちにとって、X JAPANは印象の強いバンドの一つでした。当時、日本語の音楽は韓国で普通に買えるものではありませんでした。その代わり、コピーされたカセットやビデオを通して広がっていました。
私の周りでも、友達同士で録画したビデオテープを回していました。中身はX JAPANのライブ映像やミュージックビデオでした。今ならすぐに探せる映像でも、当時は一本のテープが貴重でした。
女性アーティストでは安室奈美恵もよく知られていました。ただ、日本の「アムラー」ブームがそのまま韓国全体に広がった、という意味ではありません。日本の音楽やファッションに関心のある若者の間で、安室奈美恵の名前やスタイルが知られていたというほうが実感に近いです。
ちなみに、私が個人的に好きだったのはSPEEDです。安室奈美恵以上に有名だったという意味ではありません。私自身が好きで、ブロマイドやビデオテープを集めていたのです。写真や映像を簡単には手に入れられなかったので、一枚のブロマイドにも今とは違う特別感がありました。
キムタクと日本ドラマも「探して見る」ものだった
日本の芸能人では、SMAPや木村拓哉の名前を知っている人もいました。特に日本ドラマに関心のある層では、木村拓哉は「キムタク」として知られていました。
ただし、当時の韓国では日本ドラマを地上波で普通に楽しめたわけではありません。『ロングバケーション』や『ラブ ジェネレーション』のような作品を見たければ、ビデオなど別の経路を探す必要がありました。
木村拓哉の影響はドラマだけではありません。私の記憶では、韓国でもキムタクを意識したような長めの髪型をしている若者を見かけました。ドラマで見る東京の街並みや、若者の服装、髪型も新鮮でした。物語を楽しむだけでなく、当時の日本の空気を知る入口だったと思います。
『スラムダンク』など日本の漫画はかなり身近だった
90年代の韓国を振り返るなら、日本漫画の存在も外せません。『ドラゴンボール』や『スラムダンク』など、日本で生まれた漫画を読んで育った人は少なくありません。
特に『スラムダンク』は韓国でも大きな人気を集めました。桜木花道が「カン・ベクホ(강백호)」、流川楓が「ソ・テウン(서태웅)」になるなど、登場人物の名前も韓国向けに変えられていました。
当時は漫画雑誌や紙の単行本を読むのが身近な娯楽でした。その中には日本漫画も多く、子どもや学生にとって日本文化との接点の一つになっていました。
アニメは『セーラームーン』から『エヴァ』まで
日本アニメも90年代の韓国で親しまれていました。ただ、作品によって広まり方はかなり違います。
『美少女戦士セーラームーン』は、テレビを通して子どもたちに知られました。一方、日本アニメを積極的に追うファンの間で注目された作品もあります。たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』です。
テレビで見る作品もあれば、ビデオや専門店などを通して探して見る作品もある。同じ日本アニメでも、韓国での入り方は一つではありませんでした。
日本のゲームが日本語への入口になった
私にとって特に大きかった日本文化はゲームです。
日本のゲームも、私にとっては日本文化に触れる入口でした。ただし、家庭用ゲーム機向けの日本のビデオゲームが制度上全面開放されたのは2004年です。1990年代に日本のゲームに触れた経験は、公式に一般流通していたという意味ではありません。私の場合は、身近な人を通じてソフトに出会い、遊ぶ機会がありました。入手経路は人によって異なり、当時の状況を一つの体験だけで語ることはできません。

撮影:Evan-Amos、画像編集:Gunnar.offel / Wikimedia Commons(原本・利用条件) / Public Domain
ゲームソフトは子どもにとって決して安い買い物ではありませんでした。私も欲しい作品のために何か月もお小遣いを貯めたことがあります。手に入れた一本を繰り返し遊んだ時間も、作品そのものと同じくらい記憶に残っています。
日本版のゲームでは、画面に出てくる文字も日本語でした。先に進みたい一心で、分からない文字や単語を調べるようになりました。
最初から「日本語を勉強しよう」と考えていたわけではありません。ゲームを先に進めたくて調べるうちに、日本語そのものにも興味が広がりました。振り返ると、好きなことを入口にした学びは、机に向かう勉強とは違う形で記憶に残っています。その後の学習については、日本語を学んで感じた覚えやすさと難しさでも書いています。
ソニーのウォークマンにも憧れた
音楽や漫画だけでなく、日本の電化製品も身近なところにありました。その中で今も印象に残っているのが、ソニーのウォークマンです。

撮影:Anna Gerdén / Tekniska museet / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
90年代後半まで、韓国でも「ウォークマン」の名前は広く知られていました。聞けば携帯型カセットプレーヤーを思い浮かべるほどでした。ソニー製品を手に入れたいと思う人も多く、私の世代にとって日本の電化製品を象徴する名前の一つだったと思います。
好きな音楽をカセットに入れて外で聴く。今なら何でもないことですが、当時はそれ自体が新鮮でした。日本文化への関心は歌手や漫画、ドラマだけでなく、こうした身の回りの製品にもつながっていました。
文化開放前から、日本文化はすでに身近にあった
1998年に始まった日本大衆文化の開放は大きな転換点でした。ただ、私の記憶では、その年を境に日本文化が突然身近になったわけではありません。開放が段階的だったことを踏まえると、制度の変化と、すでに作品に触れていた人たちの日常は分けて考える必要があります。
私や周囲の友人にとっては、音楽のカセットやビデオ、漫画、ゲームなどが日本文化との接点でした。ただし、これは身近な範囲での思い出です。文化開放前にどの作品がどの程度広まっていたかを、個人の記憶だけで韓国全体に当てはめることはできません。
私にとって、友達と回して見たX JAPANのビデオは90年代の思い出です。また、SPEEDのブロマイドや、お小遣いを貯めて買ったゲームも忘れられません。今では簡単に手に入るものばかりですが、当時は探して手に入れること自体が楽しみの一部でした。
